聖書を理解する

聖書を読み解く鍵

1.神は永遠である。

神が永遠(初めであり終わり)であるという意味を理解する。

 

神が永遠(初めであり終わり)であるということは、神は不変の「存在」であるということで、そのことによって、神は、人が唯一信頼を置くことのできる方であるということが分かります。その約束も不変です。
また、神が永遠であるということは、神は時間を一時(いちどき)に見ておられるということです。聖書を読む時にこのことを理解していることは重要です。時間をいちどきに見る見方は、人にはできません。ですから、永遠とは全く神の分野であり、人はそれを見極めることが出来ないということを理解し、全ての判断を神にお任せします。
人が知らなければいけないのは、大きすぎて知り得ない主のみこころの全てではなく、主が人に分け与えてくださっている霊による思いと、示されている「みことば」です。
そして、主にとっては「時間」も一つですが、主の命令に聞き従うために、人には、日や年や季節によって見分けることが出来る、「流れる時間」が与えられています。それによって、私たちは、主の教えに沿って物事を「区別」することができます。その「時間」の中に、「時刻」のような、「神の定められた時」があり、これは、永遠を持たない人には、黙って受け取るだけのものです。
人にとって大事なのは、神にしか分からないことは分からないと理解していることです。神は人に、人が理解しなければいけないことは全て教えてくださっていますので、それを、自分の分(タラントン)に応じて力を尽くして理解するのが、人の務めです。
人が、「分からないこと(神が教えてはいないこと)は分からないとする」ことはとても重要なのですが、それを分かったかのように高ぶることによって真実から離れてしまいます。これはサタンの誘惑に乗ったもので、肉の働きです。

 

 

2.「無い」ものは無い。

神は命であり、死はサタンが世にもたらした嘘であることを知る。

 

神は、「神の命令に逆らうと人は死ぬ」ということを、初めから人に教えておられました。それは、人が神に属する者として神の国に生きることが出来なくなることであり、「死ぬ」とは「サタンの所有となる」ということです。
しかし、サタンは「偽りの父」ですから、人を自分の支配下に閉じ込めるために「死」というものを、「無くなってしまうこと」であると、人に思わせました。「無い」ものが「在る」と人に思わせるのはサタンの偽りであり、事実は違います。人は死んでも「無く」なりません。むしろ、死んでからが本番なのです。なぜかと言うと、神は、人が幸せに豊かに生きるために神の園を造ったのであって、そこはアダムが追い出されてから天使と剣の炎によって守られていて、まだ、アダムとエバ以外の人が住んだことがないからです。神はこの世界に、回復した人を住まわせようとしておられます。その国の王である神の御子が、人を回復させてそこに連れ帰るために、人の犠牲となって罪と死を取り除くために、サタンの支配する国に降りてこられたので、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という言葉で始められたのです。「悔い改めよ」と言われたのは、神は人を命を捨てるほど愛しておられますが、人の方からもその主の御支配なさる国に住みたいと望むのでなければ、主と人との愛の契約が成り立たないからです。神は、創造主ですが、ご自分が創られた人を「あなたのことは全然知らない」と言われることがあります。なぜかというと、神は人を創りっぱなしにしたのではないので、人が返事をしないと関係が作れないからです。一回返事をしておいたらよいのでもなく、神は愛する人に語りかけておられるので、いつも返事をし続けないと、関りが持ち続けられないからです。
サタンは、「死んだら無くなってしまうのではないか」という不安に加えて、「どういう死に方をするのだろうか」と心配する恐怖も与えました。しかし「死に方」で人を怖がらせるのもサタンの手です。この世はサタンの支配下で、サタンは罪と死で世を司っているのですから、どんなに恐ろしい死に方もありなのです。人がどんなに、残虐な、屈辱的な、不名誉な、不条理な死に方をしたとしても、それはこの世の最後でのことです。また、何歳で死んでも、死に方に人の手が加わったとしても、死んだ時がその人の寿命です。その人の死は、まだ生きている人の課題となります。死ねばとにかく解放されて、人は神の下へ帰り、本当の裁きを待ちます。
エスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、使徒たちにお命じになりました(使徒10:42)。この日を希望として、私たちは主イエス・キリストが来られる日と御国を待ち望んでいます。つまり、死んだ者は、無くなってはおらず、皆よみがえり、主の前に立ちます。主の前に出ることが出来るのは、死んだものはサタンの世界と肉を離れているので、聖められているからです。それは、主への屠られたささげものをすべて神が聖めておられることに示されています。
世に生きている間は、全ての人が罪人なのですが、「死」とは、サタンの世からの解放であり、肉を離れたすべての霊は、霊で在られるその創り主の下に帰ります。神は霊であり、御子は罪ある肉を滅ぼすために肉を取られたのであり、肉の滅び(死)によって、人は本来の姿に回復し、主の御前に立ち、精算されます。生前、人の目にはどんなに罪深い人であったとしても、どんなに善良な人であったとしても、死んだ人はよみがえり、その命は、命の源である神の下に帰り、公平な裁きを受け、ふさわしい人が神の国に住みます。

3.「霊」を見分ける。

あらゆる物事が、天上の権威者(神)と空中の権威者(サタン)のどちらに属しているかを見分ける。

存在するものはすべて、神に属しているか、悪魔に属しているかのどちらかです。「私のもの」というものは、ありません。
 
神がお創りになって人を住まわせようとされた世界は、人が、神から豊かに食べ物をいただき(創1:29,2:9,16)、自然界を支配して、祝福の中に生きる(創1:26,28)ことが出来る楽園です。それはキリストの王国で、そこに住まわせるために人が作られました(ヨハ17:24)。
悪魔はそれを妬み、神に創られた人が神を捨てて自分を見るように誘いました。悪魔は元々は「明けの明星、曙の子」と呼ばれ、知恵と美しさに満ちた(イザ14:12-14、エゼ28:12-17)大天使でした。
(天上界で、アダムとエバが創造される以前に何があったのかは、人には知らされていませんが、創世記1:2の、「地は混沌であって(「混沌になって」とも訳される)、が深淵の面にあり」という言葉から、サタンの何らかの働きがかかわっている(それによって一度滅びている)ことが想像できます。そこに神は「光あれ」と、光を創造されました(ヨハ1:1-5)。)
ですから、私たちはまず、悪魔は大変美しく、ミカエルと同等の力を持っているということを、知っている必要があります。
 
この悪魔が、神が創造したエバとアダムを、自分のものにするために誘惑しました。神が食べてはいけないと命じられた木の実を使って、まず女、それから男です。賢い悪魔は、神が人をどのような特徴を持たせて創られたかもちゃんと知っているからです。そのように、悪魔は、個人でも集団でも思いのまま操ることができます。
悪魔(サタン、ヘブライ語で敵対者)が人を誘惑したのは、人から、地の支配権を奪うためです。人はサタンに身を売って誘惑の木の実を食べ、サタンの所有となってしまいました。サタンを選んだ人は、神の園から追い出され、サタンの支配する世界に置かれました。神の園は、ケルビムと、聖くされていないものの一切を焼き尽くす御言葉(きらめく剣の炎)によって、神の御子イエスが第二のアダムとして地上でサタンに勝利してから彼に与えられている人を連れて帰るまで、守られています(創3:24)。
 
すなわち、神のものとは、神の国(神の支配下)にしかなく、現在の世にあるもののすべては、この世(空中)の支配者(エフェ2:2)である悪魔のものです。ですから地上に生まれた人はすべて、生まれるとすぐに悪魔の支配下に置かれます。
 
しかし、すべての命の創造主は神です。悪魔は何も創造することはできません。命を創ることもできません。だから、神に敵対し命を否定するために、人を「死」に執着させるようにしました。そのようにして、人が自分の創造主である神を忘れるように仕向けました。
 
エデンの園には、神からの一つの命令がありました。
創2:16-17「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
神が言われる「死」とは、命の根拠である神からの分離です。永遠に生き生きと生きる命を失うことです。神が与えた命とは、神と共に生きる永遠の命です。
 
これに対するサタンの言葉は、
創3:4-5「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」で、これは、真実である神に敵対する言葉ですから、嘘です。
 
ここで彼が言っている「死」とは、霊に敵対する肉体の死のことでしかありません。しかしサタンの嘘に引っかかった人は、神の言う、永遠の「命」と「死」の意味に目が閉ざされて、サタンが人を騙すために持ち出した肉体の「死」を恐れ、この世限りの肉にある「命」に執着するようになったのです。
 
ここに示したように、サタンの策略を見抜くコツは、サタンが神の真実の言葉や被造物を利用して、そこに偽りである敵対のパン種を、人には分からないように混ぜ込んでいるのを読み取ることです。
 
次に、「善悪の知識の木から食べる」とは、本来、人がするべきではない善悪の判断を、自分でしてしまうことを言っています。そしてその木が中央に置かれていることは、人は神のことばを中心に置いていつも覚えて祝福の中で生きるのであることを示しています。(私たちは復活すると天使たちのようになるという祝福がありますが、天使たちは、自分で判断をしません。いつも神の御顔を仰いでおり(マタ18:10)、神を賛美し礼拝し、神の命令通りに行っています。)
 
しかし悪魔は、完全に神に信頼することなどやめて、自分で、神のように善悪の判断をしなさいと、人に勧めました。
 
それで、人は現在、そのように生きています。
それが当然正しいことであると信じています。
しかし実際にはそれが真実ではないことも知っています。例えば、犯罪者を本当に正しく裁くことができません。人は家族のことについてさえ、正しくは知っておらず、本人のようにその人を理解することはできません。自分のことでさえ正しく判断できません。人が知っていることよりも、神しか知らないことの方が、宇宙大に多いのです。しかし人は、自分で判断できないのにしようとすることで、自分を、「混沌」とか「混乱」といったサタンの分野の中に置いてしまっているのです。
 
また、人は、サタンの傲慢に従ったので、「自分のもの」があると思っています。本当は、サタンが人にそう思わせて、神から目を逸らさせ、人を支配しているだけなのです。例えば、命が自分のものだと思っているので、自分で判断して、自分の好きなように扱って良いと考えています。しかし、自殺や他殺がなぜいけないかというと、命は人のものではなく、神のものだからです。「自分のもの」は、何もありません。人は被造物であり、自分が存在の根拠ではないからです。
そして、サタンもまた被造物なのです。人は世にあるので、天使より低い位置に置かれていますが、本来は、天使が人に仕える者なのです。だから父は御子を人として世に遣わし、サタンから解放してくださったのです(ヘブ1:4、2:5-18)。
全ての命は神に属しています。被造物であるサタンは神に属するような永遠のものを何も所有していないのに、傲慢にも神から離れてしまったため滅びるしかなく、自分がそうなることも知っています。それで、人を騙してこの世の支配権を奪うことで空中の権威者となり、「死ぬ人」を自分のものにしたのです。人を道連れにして、あわよくば回復する神の国を乗っ取ろういう気さえ持っているようです(マタイ13:1-52)。
それで、人は必ず死ぬことが決まっているので、全ての人はサタンの支配下に置かれているということなのです。そのことによる弊害が、肉への執着です。そのようにして、サタンは人を「サタンのもの」にしています。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」というサタンの言葉は、嘘ですから、本当はこうなります。
「必ず死ぬ。それを食べると、目が閉ざされ、神のように善悪を知るものとはならない。」
「世」は偽りなのです。すべてのものは滅びます。サタンが「空中の」権威者と言われている通りです。そして人もサタンの子のままであれば、サタンと共に滅びます。
 
人は元々神に似せて創られ神と共にいたのですから、わざわざ一旦神から離れてから神のようになる必要はないのです。
 
もう一つ、神の国と地上との違いに驚く事実があります。
私たちは地上では何らかの職業についていますが、天上に労働はありません。労働は、人が死ぬ者となった結果、与えられました(創3:1719)。カインの子孫から様々な職業が現れました(創4:1922)。その場その場で人は善悪の知識の判断をしていくことになりました。これらすべてはサタンの支配下で為されることです。しかし、本来「仕事」とは、世や人に仕える事ではなく、神に仕える事であり、すなわちそれは礼拝です(黙22:3‐4等)。
私たちは、あまりにも多くの当たり前の日常が神の国の価値観に沿わないことに気付いていない、ということを知っておくべきです。
この世の不条理は、神の国では異常なことなのです。
 
 
それでは、神の支配下に自分を置くためには、どうすればよいのか。
私たちは主の祈りでいつも「御国が来ますように」と祈っていますが、それは、自分に神の御支配がありますようにという意味でもあります。自分が自分に従うのではなく、神の御支配の内に生きますようにという願いです。
 
それはイエス・キリストを信じることによって可能になります。そして信じた人は弟子になって命を得るようにと言われています。主イエスさまはそのために来られたからです。だから信じた人は、イエスのところへ行きます(ヨハ5:39‐40)。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14:26-27)」
「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。(ルカ14:33)」
ありえないのです。
私たちは世と決別したなら、主に繋ぎ変えられたのです。両者の間に接点はありません。(Ⅱコリ6:14‐7:1)
ヨハ8:31‐32イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ヨハ14:15 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
ヨハ14:21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
ヨハ14:23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
ヨハ15:4‐5わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハ15:8‐10あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。