聖書を理解する

聖書を読み解く鍵

2.「無い」ものは無い。

神は命であり、死はサタンが世にもたらした嘘であることを知る。

 

神は、「神の命令に逆らうと人は死ぬ」ということを、初めから人に教えておられました。それは、人が神に属する者として神の国に生きることが出来なくなることであり、「死ぬ」とは「サタンの所有となる」ということです。
しかし、サタンは「偽りの父」ですから、人を自分の支配下に閉じ込めるために「死」というものを、「無くなってしまうこと」であると、人に思わせました。「無い」ものが「在る」と人に思わせるのはサタンの偽りであり、事実は違います。人は死んでも「無く」なりません。むしろ、死んでからが本番なのです。なぜかと言うと、神は、人が幸せに豊かに生きるために神の園を造ったのであって、そこはアダムが追い出されてから天使と剣の炎によって守られていて、まだ、アダムとエバ以外の人が住んだことがないからです。神はこの世界に、回復した人を住まわせようとしておられます。その国の王である神の御子が、人を回復させてそこに連れ帰るために、人の犠牲となって罪と死を取り除くために、サタンの支配する国に降りてこられたので、「悔い改めよ、神の国は近づいた」という言葉で始められたのです。「悔い改めよ」と言われたのは、神は人を命を捨てるほど愛しておられますが、人の方からもその主の御支配なさる国に住みたいと望むのでなければ、主と人との愛の契約が成り立たないからです。神は、創造主ですが、ご自分が創られた人を「あなたのことは全然知らない」と言われることがあります。なぜかというと、神は人を創りっぱなしにしたのではないので、人が返事をしないと関係が作れないからです。一回返事をしておいたらよいのでもなく、神は愛する人に語りかけておられるので、いつも返事をし続けないと、関りが持ち続けられないからです。
サタンは、「死んだら無くなってしまうのではないか」という不安に加えて、「どういう死に方をするのだろうか」と心配する恐怖も与えました。しかし「死に方」で人を怖がらせるのもサタンの手です。この世はサタンの支配下で、サタンは罪と死で世を司っているのですから、どんなに恐ろしい死に方もありなのです。人がどんなに、残虐な、屈辱的な、不名誉な、不条理な死に方をしたとしても、それはこの世の最後でのことです。また、何歳で死んでも、死に方に人の手が加わったとしても、死んだ時がその人の寿命です。その人の死は、まだ生きている人の課題となります。死ねばとにかく解放されて、人は神の下へ帰り、本当の裁きを待ちます。
エスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、使徒たちにお命じになりました(使徒10:42)。この日を希望として、私たちは主イエス・キリストが来られる日と御国を待ち望んでいます。つまり、死んだ者は、無くなってはおらず、皆よみがえり、主の前に立ちます。主の前に出ることが出来るのは、死んだものはサタンの世界と肉を離れているので、聖められているからです。それは、主への屠られたささげものをすべて神が聖めておられることに示されています。
世に生きている間は、全ての人が罪人なのですが、「死」とは、サタンの世からの解放であり、肉を離れたすべての霊は、霊で在られるその創り主の下に帰ります。神は霊であり、御子は罪ある肉を滅ぼすために肉を取られたのであり、肉の滅び(死)によって、人は本来の姿に回復し、主の御前に立ち、精算されます。生前、人の目にはどんなに罪深い人であったとしても、どんなに善良な人であったとしても、死んだ人はよみがえり、その命は、命の源である神の下に帰り、公平な裁きを受け、ふさわしい人が神の国に住みます。